
4月頭から私の勤める会社でもリモートワークが始まり、私はもう丸2ヶ月以上、たまに出社した時に会う同僚や近所のスーパーの店員さん以外とは、直接顔を合わせていないことになる。
でも何故か、不思議と寂しくない。
今までずっと、自分のことを寂しがりやだと思っていて、心細くなったらすぐ会いに行ける距離に誰かがいてくれる場所じゃなきゃ、住めないと思っていた。
実際に、毎日のように沢山の人と会う生活を送っていたし、自分はそうでないと生きられないのだと思っていた。
でも、もしかしたらそうじゃなかったのかもしれない。
この期間中、よく連絡を取っていた人もいるし、たまに連絡を取る人もいれば、全く話さなくなった人もいる。
そこで気付いたのは、勿論連絡を取り合うことは楽しいし元気をくれるけど、かといってそれがなければその人と疎遠になるというでもないし、自分がその人のことを気にかけなくなるわけでも、その人が自分のことを忘れるわけでもないんだということ。
心を支えてくれるのは、傷や寂しさや不安を癒してくれるのは、
「自分には味方でいてくれる人がいるのだ」
と信じられる気持ち。
誰かと常に一緒にいる生活も、誰かと常に連絡を取っている生活も、それはそれでいいと思う。でもそれにしたってきっと、そばに誰かいるから、連絡を取る相手がいるから寂しくないのではない。
自分には味方がいる
気にかけてくれる人がいる
愛してくれる人がいる
それをただ、「知っていること」。
それが力をくれるのだと思う。
予定を詰め込んで忙しくしている間には、日々に追われて気付かなくなってしまっていたけれど、きっとそういうことなのだ。
忙しければ、自分の気持ちや感覚はある程度麻痺させていられる。「考えている暇などない」「感情にものを言わせている場合ではない」とも言える。
でもふとスケジュールに余白ができ、誰かに決められた時間の使い方をすることが減り、何をするにも自分で選択するようになると、
一つ一つの行動や出来事に対して、自分の気持ちがどんなふうに揺り動かされるのか、明確に見えてくる。今までよりも、直に感じられるようになる。
それが怖いからあえて忙しくしてその感覚を麻痺させたくなるときもあるのだろう。忙しいのが好きな人がみんなそうとは言わないが、少なくとも私には、そんな時もある。
自分の感覚が鮮やかになって気付いたのは、必ずしもコミュニケーションの全てが、人との関わりの全てが、自分を幸せにしてくれるものではないということ。
だから数が増えたからといってどんどん幸せになるわけではない。
知っている、ことが全て。
「自分のことを思ってくれる人がいる」と、知っていることが全て。
誰にでもきっと、その人を心から気にかけてくれる人がいる。わたしは絶対にそうだと思うのだけど、その存在に気付くことは、それを「知っている」ことは、本人からすると案外難しいことだったりする。
人は全員から好かれることなんてできない。
だからありのままでいて、その自分を心から大事に思ってくれる人のことだけを、見ていたらいい。
そう思えることのパワーはすごく大きい。
そう本気で思えるようになった途端、雑音がどんどん小さくなるから。
「きっとあの人は、私を信じていてくれる」
その人に本当かどうか確かめなくたっていい。自分がそう思えるようになるだけで、すごく勇敢になれるから。
私はそれを知っているから、大好きな人たちに、いつも気持ちを伝えていたい。必要以上なくらいに。「もういいよ」「別にいらないよ」と思われても、損だとは思わない。
麻痺していた感覚がふと蘇ったとき
無防備になったとき
不安に襲われたとき
何か辛いことががあったとき
そんなときだけでいいから、「あ、でもあの人はきっと自分の味方をしてくれるだろうな」と一瞬思い出す人たちの中に、私がいたらいい。
知ってくれていて、それがパワーになったらいいなと思うから。