悪気のない無知

カテゴリー Uncategorized

人の心や視点って本当に複雑というか、分かりにくいものです。人の心には色々な面があるから。自分自身の心の中だって、把握するのはとても難しい。自分の考えや行動の全てを点検して、どこにも矛盾がないように生きるのは、非常に高度なことだと思います。

自分のことを「悪い人間だ」と思って生きている人なんてあまりいないと思うのです。でもだからこそ、自覚なく、悪気なく、無意識のうちに誰かを傷付けてしまうことがあるのかもしれません。

私自身、そんなことは絶対にしたくないと気を付けて生きているつもりです。でも「気を付けているつもり」だからこそ、かえって自分の行動に対して盲目になっている可能性はあります。私にも、悪気なく誰かを傷付けている可能性は常にあるのです。そうやって自分を疑うことの大切さを、最近強く感じます。

最近、黒人差別に抗議するデモ参加者のサインの中に、こんな文章を見つけました。

Treat racism like Covid-19.
(人種差別をCovid-19のように扱おう)

  1. Assume you have it.
    (自分が持っているかもしれないと思おう)
  2. Listen to experts about it.
    (専門家の話を聞こう)
  3. Don’t spread it.
    (広げないようにしよう)
  4. Be willing to change your life to end it.
     (終わらせるために、進んで自分の生活を変えよう)

とても分かりやすくて良い表現だと思いました。

「自分は差別なんてしない」と思いながら、それでも心のどこかで差別をしている人って、案外少なくない気がするのです。人種差別に限らず。

会話の中で不意にものすごい矛盾に出会って、くらくらすることがあります。

コロナウイルスが流行し始めた頃、欧米諸国でのアジア人差別が話題になりました。現地に住んでいる日本人が道端で見知らぬ人に「国に帰れ」と言われることもあったと聞きます。ふとその話題になったとき、ある人は「その人は悪くないのに。」「そんなこと言うなんて酷い。」と言いました。

でも同じ人が、日本に住む外国人コミュニティの話になったときには、彼らのことを「なんだか危なそう」「何か悪いことをしているのではないか」「怖くて近付けない」と、躊躇いもせずに言うのです。日本人差別を「酷い」と言っていた人がです。

「英語が好きです」「ヨーロッパ文化が好きです」「海外旅行が好きです」と笑顔で嬉しそうに言う人が、日本に来る中国人観光客についての話題になった途端、「また中国人が」「中国人ばっかりであそこには行きたくない」と、嫌悪感たっぷりに言うのです。

取引先の担当者が男性のときは性別のことなんて一切口にしないのに、女性のときだけ「◯◯さんという女性の方」と毎回決まって言う人たちがいます。(「そんなに珍しい?私だってあなたの目の前で働いているけれど…」と毎回思います。)

外国企業と仕事をしていてトラブルがあったとき、お互いの認識のズレやコミュニケーションエラーが原因のはずなのに、「あいつらはバカだから」「本当に◯◯人は困ったもんだ」と平気で言う人もいます。

日本で生まれ育った人の中には、人生で映画やテレビの中でしかアジア以外の人種の人と出会う機会がなかったという人もいるかもしれません。恐らくそういう人なのか、いざ他の人種の人を現実世界で見かけたときに「わあ」「怖い」と咄嗟に言ってしまう人がいます。じろじろと眺めてしまう人もいます。

あのね、と言いたくなるけれど、言えないことの方が多いです。上手く言葉にする方法が見つからないこともあるし、勇気が出ないこともあるし、タイミングを逃してしまうこともあります。

私は女性でありアジア人種なので、決して最も優遇されたアイデンティティではなく、差別の対象になることもあります。日本で、「男性だったらこんな嫌なことを言われなくても済むのにな」と思ったことは多々あります。欧米に行ったとき、なぜか西洋人とはあからさまに違う対応をされたこともあります。

とはいっても、私個人に限って話せば、日々差別に苦しんでいるという訳ではないし、どちらかと言うと非常に恵まれた、平和な暮らしをしています。

そんな特権を持つ者として、出来ること、やるべきことがあるのではないかなと思うのです。自分が被害者ではない話題について、当事者でない立場だからこそ、立ち上がって動くべき場面があると思うのです。

人の心に潜む「悪気のない矛盾」「無意識の差別」を目の当たりにしたときに、私がすべきことは、何も言わずに立ち去ることではなく、「信じられない」と突き放すことでも、責めることや、喧嘩を始めることでもなくて、「導くこと」というのが今の私の答えです。

自分が被害者ではない話題について、当事者でないからこそ出来ること。それは、「なんてこと言うんだ!」とピシャリと相手の口を閉じるのではなく、まずは彼らの話を聞きながら、その矛盾を相手に分かりやすい丁寧な方法で指摘し、その人が自ら気付いて考え方や行動を修正できるように、辛抱強く働きかけ続けることなのかなと思います。このとき、相手のことを「敵」として扱うのではなく、「友」として、一緒により良い方向へと成長しようとする心構えと行動が、鍵になりそうな気がしています。

無知からくる心無い差別の発言は、たとえ私に向けられた言葉でなくても、耳にするたびに気分が落ち込みます。私ですら傷付くのだから、被害者の人たちは、これ以上そんな言葉を聞かされ、傷付けられ続ける必要はないはず。だから当事者でない私が代わりに聞いて、「そうではなくて」という話をゆっくりしていくのが、私にできることであり、特権を持つ者としての責任なのだと思います。

優しい言葉を話せる人になりたい。
優しい行動で、人に何かを気付かせることが出来るようになりたい。
関わる人や、その周りの人までもが今より幸せになるような、そんな良い影響を人に与えられる人になりたい。
これが最近できた、新しい私の目標です。

人は逃げ道のない責め方をされると、「自分を守らなくては」と焦って、相手の話を拒絶するか、否定することに必死になります。それに人は何かを間違えたとき、何が悪いのかと言う理由を教えられずにただ怒られたって、今後どう直したらいいのか分からず、ただ不快なだけです。

だから「間違っている!」と否定だけをするのではなく、相手の話を(それが私には理解できないものでも)辛抱強くそして真っ直ぐに聞きながら、「こっちにおいでよ」と仲間を導き入れるように、その人が自ら自分の矛盾や間違いに気付くことが出来るような、そんな働きかけが出来る人になりたいなあと思います。「敵」ではなく、「友」として。人は意見の違いがあっても、たとえ対立しても、友達でいられるものです。そして友達ならば、対話できるはずだし、その経験を経て共に成長できるはずなのです。

これまでは、「ここで何か言って面倒くさい人だと思われたくないな」と躊躇したり、「この人にはもう何を言っても無駄なんだろうな」と諦めたり、「まあ私のことを言われているのではないんだから、そっとしておくか」と目を瞑ったりしていました。でも、それはきっと無責任。そこでそうやって目を瞑ることができるのは、私が当事者ではないからで、目を瞑って忘れると言う選択肢があることこそが特権なのです。そんな立場にいるからこそ、果たすべき責任があるのだと思うのです。

自分と考え方の違う人と話すことは、勇気と忍耐力と、知識や技術が必要なことだと思います。その力が今の私にあるかと言われると、正直なところ全く自信はありません。自信がないから今までは、違和感を感じても目を瞑るか、その人と距離を置くかして、自分を守ってきました。苦しんでいる人ではなく、自分を。

でもそれじゃ、何も変わらない。

相手を責めて攻撃するためではなく、広い視野を持った仲間を増やすような気持ちで、私に出来ることをやっていけたらなと思います。そしてぜひ、あなたも。

1+

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください