幸せの証明書

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「幸せになってね」

「あなたに幸せになってほしいから」

「きっと幸せになれるよ」

これらの言葉が、相手を思って発せられた良い言葉であることはほぼ間違い無いと思うけれど、

そういえば、何をもって幸せを「なる」ものだと判断しているのだろう、と疑問に思うことがあります。


何かが達成されたら「あの人は幸せになった」と判断されるような目印が、世の中にはあります。

恋人の存在、結婚、出産、大企業への就職、贅沢をする余裕のある暮らし、端正な顔立ちや理想の体型など。

これが出来たら、これを手にしたら、「あの人は幸せになった」「幸せなんだ」と他の人たちに分かって貰えるような、

まるで『幸せの証明書』のような顔をしたものたちが。

それが本人にとって幸せな出来事であるならば、その事実は変わらないし、変わる必要もありません。

かといって、「これをしないと自分は不幸せな人だと思われる」と恐れる必要もありません。

でも、本人も、世間も、この証明書にすごくとらわれているようです。

断言しますが、幸せの証明書なんてものはありません。

これをしたから、これがあるから幸せなのだと、絶対に言い切れるものなんてないから。

物が豊かで幸せになる人もいれば、

物がなくても幸せでいられる人もいる。

多くの人に囲まれることが幸せな人もいれば、

一人の時間にこそ幸せを感じる人もいる。

一見何もかも手にしていて幸せそうに見える人の心に、穴が空いていることだってある。


書き溜めていたブログの下書きの中に、書いたことも、そんなことを考えたことすらもすっかり忘れていた、こんな言葉がありました。

「今、幸せなことが沢山あるから色んな人に伝えたいけど、なんかそれも違う気がする」

私はいつも、自分に関しても他の人に関しても、嬉しいことはどんどん発していったら良いと思っています。

それなのになぜかこのときは、伝えるのをためらわせる何かがあったようです。

下書きを読み進めると、その理由が見えてきました。

私が「今のこの幸せな状況を色んな人に伝えたい」と思った影には、

「嬉しくて嬉しくてとにかく言いたい」

という気持ちと、

「幸せそうな姿を見て『ああこの人は幸せなんだな』と他の人になんとなく知っておいて欲しい、認めて欲しい」

という気持ちとが混在していて、

後者がわたしを後ろめたい気持ちにさせていると。

「そんなことは気にせず言いたいなら言ったらいいじゃないか」と今の私なら思いますが、このときの私はどうやら、

「『この人は幸せにしているんだな』と他の人に安心しておいてほしい」

というような気持ちがほんの少しでも自分の中にあることに、驚いて戸惑ったのです。

自分が『幸せの証明書』に少なからずとらわれていることに。

でも、人が幸せになれるときは、他の人に知らせるための証明書を得られたときではない。

証明書を手にして他の人に「幸せなのだな」と認められたときでもない。

自分が幸せだと思ったら、それで幸せなのです。

誰の許可もいらないし、誰に認めてもらう必要もない。

自分で決めることができるし、自分で選択することができる。

幸せとは、そういうものであるはず。


そしてもうひとつ忘れがちなこと。

幸せは遠い未来にあるものではなくて、

今ここにあるもの。

幸せは、「何かが達成できたら」「何かが手に入ったら」

それと一緒にやってくることも、もちろんあります。

でも、そのときが来るまで得られないものなんかじゃない。

そこへたどり着くまでの過程にも、必ずあるもの。

だから、あなたの「今」があなたにとって幸せなら、堂々と幸せにしていたらいい。私はそう思います。

仮にそれが、他の人に分かりやすい形をしていなくても、他の人の幸せとは違う形をしていても。

あなたの幸せは、他の誰でもない、あなた自身が決めることだから。

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