少し心細い2020年の始まりに、
教えてもらった5つのこと

カテゴリー Uncategorized

不安になるニュースを毎日のように目にする今日この頃。いろんなことが「いつも通り」とはいかず、これまであまり考えなくてもやってこれたことや、自分が信じて疑わなかったことについて、再び考え直す機会が多いように感じます。

そんな中、私が最近学んだ5つのこと。

できれば隠しておきたい恥ずかしいこともあるけれど、だからこそ今、書き残しておきたいと思います。


1. 自分は案外、好き嫌いで物を言う

無意識のうちに自分の考え方や感じ方の偏りを、自分の「個性」や「価値観」だと信じて、知らず知らずのうちに「正しい」と思い込んでいるかもしれないことに気付きました。

経験したのことのないことが起こったとき、そして特にそれが望ましくない事態である場合や難しい状況ならなおさら、頭の中でいつの間にか「自分の信じたいこと」を「事実」かのように思おうとしているかもしれない。

もしかしたらいつの間にか、本当はよく理解していないことについて推測を重ねて、「自分の信じたいこと」を「結論」にしようと、そのストーリーを裏付けられる情報だけを都合よく集めているかもしれない。

それが良いことじゃないと分かっていても、決してそんなことをしようと思っていなくても、無意識のうちに。

これまで自分にあえてそんな疑いをかけるきっかけはなかったけれど、今のように次々と得体の知れないことが起こる状況では、「きっとこれが正しいんだ」と思った次の日、「やっぱり自分の考えは間違っていたかもしれない」と疑うことになる場面だって珍しくないでしょう。

自分は何も知らないと気付かされ、過去の経験も頼りにならないと思い知らされるような出来事が繰り返され、まるで自分の持っている尺度の曖昧さや未熟さを、目の前に突きつけられるようです。

それにしてもなぜ「信じたいことをまるで事実かのように思ってしまう」という、一見明らかに愚かなことをしてしまうのでしょうか。

それはきっと、何が正しいのか分からないとき、何を信じたらいいのか自信を持って判断できないとき、その「不安」に負けてしまうからじゃないかと思います。

不安がある状態って心には負担です。早くそんな気持ち悪い状態から抜け出したい。だから早々に自分の中で結論を出してしまって、「それさえ信じていたらいい」と安心したくなってしまうのかもしれません。

だってそうしたら楽だから。誰と共感して、誰を否定したらいいのか、その判断が簡単になるから。

でも当然だけど、そんなことは盲目になる行為。

知らないことは、知らないのです。

“When you talk, you are only repeating what you already know. But if you listen, you may learn something new.” −The Dalai Lama XIV

あなたが話しているときは、すでに知っていることを繰り返しているだけ。でも耳を傾ければ、何か新しいことを学べるかもしれない。−ダライ・ラマ法王14世

自分には分からないことの多い不安な状況だからこそ、「耳を傾ける」「視野を広く持つ」「色んな可能性を考える」ことでしか、正しいものや、せめて少しでも堅実な選択である可能性が高いものに辿り着くことはできないでしょう。

こうやって小規模ながらブログを書いたり情報を発信したりしている以上、そこに書かれているもの全てが「自分の好き嫌いと推測に基づいているもの」であることは致命的です。でも知らず知らずのうちにそうしているかもしれない。その可能性に気付いて、反省する良い機会になったと思います。

2. 自分の身の回りのことについて知らないことが沢山ある

医療、経済、法律。

自分の生活を支えるものでありながら、自分があまりに何も知らないことに気付いて呆然としました。これまで幸い、大きく困ることなく生きてこられたのを言い訳に、本当に何も知らないし、真剣に知ろうとしたことすらなかったと思います。

これらこそが、これまでの自分の生活を「当たり前」にしてくれているものだというのに。

制度や決まり、仕組みなど、ある程度は誰もが知っておくべきことのはずなのに、ぼーっとしていれば何も知らないまま大人になれてしまう。大人になってもそのままなんとなく困らず毎日過ごせてしまう。学ぶ機会が向こうからやってきてくれることもないので、困った事態になって初めて、「何がなんだか分からない、どうしよう」となる。

自ら積極的に学ぼうとする必要があること、そして当然素人が多少調べ物をした程度で全てを知ることなんて出来る分野ではないので、だからこそ本当に知っている人たちの声に、素直に慎重に耳を傾けることが大事なのだと思います。

3. 「みんなのために」を引き金に、攻撃が始まることがある

世界中の色んな場所が封鎖され、行動が制限されて、我慢しないといけない状況が続いています。外出制限や営業の規制などがされている一部の海外の都市に比べると、日本ではその線引きと判断が比較的まだ個人に任されている部分が大きいのかなという印象を受けます。

「全体のために、みんなのために、事態が悪化する可能性を少しでも下げるために、それぞれが考えて行動しよう」。こういった動きが求められ、呼び掛けられている今。

それでも決してだからといって、「あいつは十分に協力していない、攻撃していいんだ!」と行動することが許されているわけではありません。

でもそれを取り違える人が少なからずいるようです。「みんなのために行動すべき」というのを、誰かに矛先を向ける言い訳に使ってしまう人がいる。中にはそんなことをしながらも、「自分は良いことをしている」と信じている人すらいる。

そんなエピソードを耳にするたび悲しくなります。その違いはそんなに曖昧なものですか、と。

どちらかというとアジア文化に古くから根付いているとされる、「個人の都合もあるけれど、周りのことを、集団全体のことを考えて行動しましょう」ということが今、世界で呼び掛けられています。

でもそれがこの状況でいかに大切なことであっても、だからといって誰かを悪者にして、攻撃して、追い詰めて、従わせることが許されるわけではない。

そこに嫌悪も迫害も暴力も要らないはずです。もし時代と場所が違えばそんなこともあったかもしれない。けれど、そんな方法を取らない賢さを今の私たちは持てないでしょうか。

4. 当たり前のように仕事があることのありがたみ

「ああまた月曜日がきたな」「ああもう日曜日が終わるな」と思ってしまったこと、何度もあります。そしてきっと、これからもあると思います。

でも今日もこうして自分にできる仕事があること、もしそれが本当に小さなことだったとしても誰かのためになっていること。そのありがたみを忘れてはならないと、初めて身に染みて感じました。

そして普段は自分に関係があるか、興味のある職業にしか注意が向かずにいるけれど、改めて色んな人のひとつひとつの仕事によってわたしたちの「当たり前」の毎日が成り立っていることに気付きました。

たとえば毎朝同じ電車に乗っている人たちは、言葉を交わすわけでもなければ、一体誰なのかすら知らないけれど、一人一人がそれぞれの形で社会に貢献しているのです。知らない人の疲れた顔に、心の中でこっそり感謝するようになりました。

5. 人と人が顔を合わせて時間を共有できることの価値 −それが当たり前にできる日がきたら− 

多くの人が集まる状況を極力避けようとすると、出来ないことが増え、実施するのが躊躇されることが増えました。恐らく初めてこんな状況を経験して、改めて人と人が触れ合う機会の、それでしか経験できない素晴らしさを感じることができたように思います。

面白いことに、無駄な会議や出張がなくなるなど、「実はわざわざ顔を合わせる意味がなかった」というものが分かった事例もあります。

だからこそかえって、「これはこんなに大切だったんだ」「自分にとってこんなに大きな意味があったんだ」と思う物事も、浮き彫りになったのではないでしょうか。

みんなで集まること、誰かに会いに行くこと、触れ合うこと。

それがまた当たり前にできるようになる日が来たら。

同じ空間に居合わせる誰かと体験を共有できることのかけがえのなさを噛み締めたいし、喜びや感動といった感情がそばにいる人たちに伝わって、その空間の温度が上がる瞬間に熱くなりたいし、そんな時間を自分が提供できる機会には、それがもっと特別なものになるよう努力したい。

不安も不満も生まれるときだから、つい人に当たりたくなることもあるかもしれません。でもそれ以上に今、人が人を恋しく思っているのが伝わってきます。そして人が人に与えられる優しさや、安心感や、癒しの大きさに、多くの人が気付き始めているような気がします。

広い心と視野を持って、これまで忘れがちだったことに改めて気付き、反省して学び、「当たり前」のありがたみを感じて、人に優しくしていたい。


少しでも心に癒しと温かい光が射しますように。

7+

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください